2011年4月20日

深呼吸

日本を離れて、3月25日で丸1年。

節目は大事にする派なので、ここいらで長々と自分語りしてもいいんじゃないかと。


この1年についてぼんやり回想にふけってみると、

あー、大変だったなー

なんて。



私生活@貧困国に関しては覚悟の上だし、慣れちゃえばどってこたない。

乾季で水がカラカラの時は生唾を飲んで我慢するし、雨季で停電になる夜は小学生バリの早寝で誤魔化す。
実際最近こっちは雨季なので、"計画停電"ならぬ"連日停電"。

"これ、絶対お腹下すわー"と思ってたæåŒ 'も素手で食べるし、鶏をさばいて食べることだってある。

蚊の友達に毎晩のように生き血をすすられるけど、変な病気さえ移さなければもうどうでもいいやとさえ思う。


けど、
活動ってやつにはずいぶん苦労かけられた。

学校は、先生の人手が足りないわけでもないし(そのくせあまり学校来ない)、一緒に新しい何かを学ぼうとするわけでもないし、準備されてる仕事なんてほぼないし、自分から動いて頓挫したアレヤコレヤが。。。。


はじめの頃は、日がな机に座ってボールペンを右に転がして左に転がしてるような日々だった。


そういう中で。
こういうことを人はあんまり言ってくれないけれど、
「放棄」という、どんな選択にも必ず存在する究極の選択肢を選んできた。

それを選ばないためにはどうしたらいいかと考えるのが人としてごく自然な流れであるなら、選択肢としてまず絶対にあるんだから、あえてそれに手を伸ばすのだって同じように自然な行為です。

活動に限らず、少なくともこれまでにあったいくつかの局面で、僕は「放棄」を選択してきた。
当然それは褒められたものでは全然ないし、大抵の場合は後悔の種にしかなりません。
へたをすると自虐が芽を出して絶望の花さえ咲きかねない、100パーセント負の遺産。

けど、人に迷惑かけたりとか、自分がおかしくなっちゃったりするぐらいだったら、とっとと逃げちゃったほうがいいし、そういうみみっちい感じやセコイ感じって嫌いになれない。

だからって"いざとなったら全部捨て去ってオホーツクへ行こう"とかそういう話ではもちろんありません。
「必死になったほうがいいのではないか?」という不安をうまいこと言いくるめて取り除こうとしてるのです。
必死になれば結果が出るというものでもないしね。
なるようにしかならないし、ならなかったらならなかったでどうにかなります。


例えば少年漫画とかでよくある
「男には負けるとわかってても、闘わなければならないことが人生に3度ある!」
みたいなのは、フィクションの世界ではいいけど、現実には"ちょっとなぁ・・・"って。

浅いところで思考停止してるように感じるし、
それより"勝てる道をじっくり考えようよ"って言いたくなっちゃう。
(だけど、どうもそっちの男のほうが女にモテるのだ。)



要は、"放棄する"と"あきらめる"ってのは違うって事を考えてきたのだ。
あきらめるってのは、その道を通ってゴールを目指すのが不可能と判断したときに「その道を通る」のを
"あきらめる"のであって「ゴール」をあきらめるわけでは決してない。

放棄をポンポン選択するわりに、あきらめの悪さにずいぶん定評があるのはそのためです。



若い時の悩みなんて今後の人生において立ちはだかる壁の厚さにくらべたら、ベニヤ板みたいなもんじゃないかってテキトーに考えてるふしもあるし。

一方でこんだけ長い事一人でいると、自分の中の内面のところにどんどんミニマムにいってしんどくなって、友達と飲んでる時に変な酔い方して涙が出てくるってことだってある。

大人になったら欝のひとつも経験するのが心身のたしなみだし、それはそれで"欝心地いい"って事だってあるじゃないか。



そういうモンモンも含めて、

あー、大変だったなー

なんて。



まぁ上記のようなネガティブキャンペーンが書けるのも、今、活動が上手くいってるから。
(夜中にしんみり書いてるのも影響ありそうだけど)
連日絶賛停電中だってのもあるし、学期末だってのもあるけど、毎日の生活がずいぶん充実してるから、blogとも距離を置いてるのです。

「じゃあ、何してるんか?」ってのは、また別の機会にじっくり。

今年の抱負のような気概は、しっかり実行・遂行中って事で。

ぼくは言ったことは必ずやる派で、やれないことは言わない派。
また、言ったのにできなかったことはそもそも言った記憶はない派。
もしくはそういう意味で言ったのではない派。
言わずにこっそりやってできたら言う派や、言ったのにやらない派は嫌いだし、認めない。

そんなスットコドッコイな感じで、もう一年をここでのんびりやっていこうかな。


そんで、先日。
全国にいる同期の友達と首都に集まって、"一年間生還記念パーティー"を開催したのでした。
愚痴やら笑い話やら情けない話やらどうしようない話をワッハッハとやったのです。

「思い出の写真」の必要性をお互いに感じていたのも嬉しい。

僕らが昔、写真を撮らなかったのは、いつまでもあの生活が続くと思っていたから。
僕らが今、写真を撮ろうとするのは、永遠に続くものなんてないかもしれないと気づいたから。

The celebration of survival @ Kampara
世界各地の同期の皆様。
ウガンダの21年度4次隊は元気にやっていますですよ。