2010年7月25日

赴任場所、Busuubizi Core Praimary Teacher's College③

その後、校内を見学。

さすが"Core"と言うだけあって、綺麗で落ち着いた学校。
PC室のPCは30台程あったし、大きな教会も敷地内に(ウガンダは、ほぼキリスト教)。



そして、気がつけばホールの前に。
今の時間は全校朝礼が行なわれているとの事。
案の定中に入り、案の定紹介され、案の定"自己紹介してくれ"となった。

全校生徒400人超を前にしての、まさかの無茶振り。心の準備、待ったなし。
「若者の心はむき出しの肌のように敏感なんです!」と叫びたかったけど、
それが英語で言えれば苦労しない。


一瞬考えた後。


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(出身地なんかの有り体な自己紹介の後)
いやー、こないだカンパラでスーパー行こうとしてマタツ乗ったら、ムコノ県に連れてかれちゃいまして。コンダクターに僕の英語全く通じなくて。
僕は前任者と比べて語学得意じゃないんです。だから、英語を僕に教えて下さい。その分、理科についてだったら君たちに何だって教えるので。もちろん、ルガンダも!
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マタツの件は(若干話を盛ってしまったが)生徒にウケたので、一安心。
その後、PTCを後にして、僕の住居があるKororo村へ。

赴任場所、Busuubizi Core Praimary Teacher's College②

まずは、ここのPrincipal, Mr Chondoに挨拶。

Mr.Chondoは50代半ばくらいの、生徒にも職員にも良い意味で厳しく、校長然とした方。
会えば気さくに話しかけてくれるし、相談にも乗ってくれるとても信頼できるボスだ。

以前、シニア隊員の方に
「ウガンダの教育を受けてる年長者は、植民地時代にイギリスの厳しい教育制度を受けてるから、凄く教養がある」
と教えてもらったが、Mr.Chondoを見てると納得しきり。





ここでは、青年海外協力隊が僕で3代目になるので、受け入れも慣れたもの。
同伴で来てる調整員を交えて、お互いの紹介や今後の事について話し合い。


ただ。
僕の前任者の方は、語学学校の講師をしてた程、語学堪能で優秀な方だった(そう)。
それが一転、3代目がこんなだ(語学に不安+若い)。
しかも、最終学歴の"Faculty of Policy Management"についてツッコむPrincipal。
中学・高校レベルの理科なら得意と言っても、口先だけでは信頼されない。


早くもピンチ。。。


その時、履歴書の"Hazardous Materials Officer's License"についてツッコむPrincipal。
この資格が功を奏して、いきなり全クラスの化学・物理の授業を担当する事になった。
(生物は自信がないので全力で拒否した。)





学生時代。勉強せず、遊びもせず、彼女もいなかったあの頃。
する事と言えばガソリンスタンドのバイトしかなく、月に134時間勤務した事もあったあの頃。
所長にそそのかされてノリで取った資格が、ウガンダの地で役に立つとは、、、!

人生何がどうなるか分かったもんじゃない。

2010年7月20日

赴任場所、Busuubizi Core Praimary Teacher's College

今更ですが、僕の協力隊での職種は「理数科教師」です。
(童顔が原因で、先輩達には度々「青少年活動」と勘違いされるけど)

そして、僕の配属先はPraimary Teacher's College(通称PTC)、小学校教員養成専門学校。
それも"Core PTC"と呼ばれるPTCの中で上位に位置する、設立が1932年という伝統ある学校。

小学校の教師を目指す生徒を対象に理数科目を教えるため、小学校で子供に直接教える以上に、将来のウガンダ教育に影響を与えるポジションだ。



そんな重要な位置に"アンタでいいのか?"批判はもちろん受け付けます。
教授法を先生の立場で教えられる程の技量は持ちあわせていないし。

ただ「外から人を入れる」すなわち「内の期待を裏切る期待」。
それに、傲慢承知で言わせてもらえば"選ばれた身"。
現地人ではない"自分だから出来る事"を謙虚に、だけど大胆にやっていこうかと。

How(どうやって実現するか)に縛られて、What(何を実現したいか、というそもそも論)
が狭くなっては元も子もないし。

赴任県、MItyana District



僕の配属先は、首都のカンパラから北西に70kmのミティアナ県。
日本で言う所の"東京から北西70kmの小田原"といった所か。

その距離感通り"タウンで一番高い建物でも二階建て"の程良い加減の田舎街です。




赴任当初。
隣のムピジ県に勤務してる村落普及員の先輩隊員から

「ミティアナはタウンでショベルが買えるから栄えてる」

と言われた。

人から影響を受けやすいタチなので
「生ゴミは、家の裏にショベルで穴を掘って埋めよう」
と機転を活かして、僕もタウンでショベルを購入。

ただ買ったは良いが、こっちは土が硬くて全く掘れず。
後から聞いた所、土を掘るにはショベルじゃなく、バールみたいな専門の道具があるらしい。

・・・そんなミティアナ県です。

2010年7月19日

出発②

だが、しかし。


僕にはATMのカードがない。
あれからカードを取り戻す事には成功したものの、変更前の暗証番号が分からなくなってしまったからだ。それと言うのも、人に番号がバレないよう機転を活かして番号の書かれた用紙をビリビリに破り捨ててから番号を変えたため。銀行の受付に相談するも「もう一度作り直して下さい」の一言。
もちろん、JICAルールで1ヶ月半後にカンパラに上がれるようになるまで、新カードは受け取りに来れない。


僕には充分な荷物がない。
ウガンダまでの国際便の積載貨物MAX 30kgと国内便の積載貨物Max 15kgを勘違いして、関空に荷物を送らず30kgの手荷物で国内便を乗ろうとして失敗したからだ。仕方なく羽田から15kgの荷物を自宅に送り返して、後々航空便で荷物を送ってもらったものの、アイルランドの噴火で遅延。赴任まで間に合わなかった。
もちろん、JICAルールで1ヶ月半後にカンパラに上がれるようになるまで、荷物は受け取りに来れない。


みずから進んでギャフンと言いたい。


不足気味なお金と荷物、そして過不足ない不安を背負っていざ出発。

出発①

2週間という短い赴任前研修もあっという間に終わり(Blog上では2ヶ月経過)、それぞれが自分の任地に出発する日。

ウガンダの面積は、日本の本州並。いくら同じ国内といえど、それだけの広さを東の果てから西の果てまでバラバラに赴任すりゃあ、会う機会もそんなにない。

しかも、協力隊には「赴任1ヶ月半の間は、自分の任地の県からは出てはいけない」というルールが存在する。自分の任地で人にも場所にも慣れるため、らしい。(昔、任地に赴任してもすぐ首都(ドミ)に上がって来てしまう人達がいたから、らしい)

同期とは2ヶ月半の語学合宿から2週間の赴任前研修まで一緒だったので、別れる時はやっぱり寂しい。日本ではルームシェアをしてたぐらいなので、人との共同生活は苦にならないのだ。

2010年7月18日

赴任前研修の最後に

ドミでお昼中。


「アレしようか」
「うん、アレしましょう」


の結果、BBQを開催。
土を運ぶ手押し車に炭を入れて、臭う肉にパイナップルやらマンゴーをたんまり入れて、お酒に音楽でテンヤワンヤ。



赴任前研修はこんな風にして、終わっていきました。
ちょっとのんびり書きすぎたかなーってことで、次からは任地での仕事編を。


気分は1分15秒から。

ウガシャツ工場見学(午後中)

午後は同期と合流して(午前中の失態をおちょくられ)、Phenix Logistics Uganda Ltd.の社長、柏田雄一さんの元へ。

柏田さんは"ウガンダの父"と呼ばれる、ウガンダで一番有名な日本人。


【フェニックス社】
ウガンダが英国から独立して間もない1965年、新政府は現地で製品の評判が高いヤマトシャツ(現ヤマトインターナショナル 大阪市)と日本の商社に出資を求め、合弁による衣料品企業ユージル社を首都カンパラに設立。責任者には、世界を相手にヤマトシャツを販売してきた若き日の柏田社長が就任。柏田社長は、電動ミシンの使い方以前に、時間厳守、整理整頓などの基本から従業員を教育・指導して、短期間で経営を軌道に乗せるも、1978年にタンザニアのゲリラとウガンダ民族解放戦線がアミン政権と衝突し、国内が紛争状態に。この時、工場が一般民衆によって機械も建物も全て破壊&略奪され、300万ドルが一夜にしてゼロに。

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「ウガンダ国内の略奪を伝えるBBCニュースを見たら、どうしても自分の眼で確かめたいという思いが募り、ケニアの日本大使が引き止めるのを振り切って、セスナ機を仕立てて反政府側が支配するエンテベ空港に飛びました。幸い、私の顔を知っている兵士がいて、50km先のカンパラまで送ってもらえました。途中の商店はほとんど略奪されており、ユージルの工場も一切が奪われ破壊されていました。これで15年の努力も水の泡だと思いながら自宅に回ってみると、意外にも無傷でした。やがて近所の人が出てきて、押し寄せる略奪者に対して『この家は、ウガンダに尽くしている日本人の家だ。家がなくなればもう戻ってきてくれないから壊さないで』と身体を張って守ってくれたことを知りました。信じがたい思いで感激しました。

そして、騒乱がおさまった2週間後に工場に戻ると、今度は従業員が集まってきて『こんなことをしたのは我々の同胞だが、どうか工場を立て直してほしい』と泣きながら訴えるのです。この人たちを見捨てるわけにはいかないと思いました。
しかし、資金もなく融資も期待できないので、もう無理ですと新政府の大蔵大臣に挨拶にいきました。すると大臣は『少し待ってほしい』といって、わずかな時間で3億円の特別融資をまとめてくれました。後で、ウガンダ中央銀行の保証でロンドンの銀行から融資を取り付けたと聞きました」と柏田社長は当時を振り返ります。
このウガンダあげての期待に応えなければと、柏田社長は日本から機械を取り寄せ、材料を確保し、従業員とともに24時間体制で働いて2年半後には全額返済しました。しかし、その後も政変が続き身辺の危険が高まったこともあって、1984年にウガンダ人に経営を譲って帰国しました。


1993年、ヤマトシャツの代表取締役副社長になっていた柏田社長に、アフリカ開発会議(TICAD)に出席するために来日したウガンダのムセベニ大統領から、「ユージルが経営難で閉鎖した。もう一度、国際競争力のある企業に蘇らせるために協力してほしい」という強い要請がありました。
「私はウガンダ名誉領事も務めていましたが、このときは長年苦労をかけた家族にもう迷惑をかけられないと思ってお断りしました。しかし、2000年に会社を退いたときにウガンダの人々の顔が浮かんできて、今度は単身で行くことにしました」と柏田社長。
私財を投じ、かつての現地パートナーとの共同出資でユージルを買収し、不死鳥の願いを込めて社名を「フェニックス・ロジスティクス」としました。そして、荒れ果てた建物を直し、機械を修理し、従業員の再教育を行って、2001年に125人の従業員で操業を再開しました。
ところが、長いブランクの間に中国が台頭するなど世界の市場は大きく様変わりし、安さだけでは太刀打ちできなくなっていました。何とか特色を出して付加価値を高めないといけないと考えた柏田社長が以前からあたためていたのが、オーガニックコットン(無農薬有機栽培綿花)を使ったシャツづくりでした。


「ウガンダには、綿花の害虫を食べる天敵のアリが棲息しているので十分に可能性があります。世界的な環境保護、健康志向の広がりでオーガニックコットン市場は急速に拡大しています。当社は、ウガンダで唯一、原料綿からの紡績、織布、染色、裁断、縫製の一貫生産を行っていますから、品質管理をきちんとして海外の一流企業に高付加価値製品を提供していこうと考えました。そのため、3年間農薬を使用していない畑での作付けなど厳しい国際基準をクリアし、品質管理のISO9001、環境マネジメントのISO14001も取得してきました」(柏田社長)
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長々と書きましたが、途中から完全にコピペ。(実際は、この文章×2倍くらいのお話)
要するに、ウガンダの生きる偉人。


ムセベニ大統領ともかなりの親交があり、"国を立て直す"とはどういう事かという話をこれれまた延々と話された。前日に"シムシティがいかに偉大なゲームか"を同期(42歳)と熱く語っていただけに、うんうんと頷くことしかり。

その後は、工場見学をグルグルと。

2010年7月13日

僕は元気にやってます。

ご存知の方もおられるかと思いますが、昨晩ウガンダでテロがありました。

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ウガンダ爆発74人死者、アル・カーイダ系か

【ヨハネスブルク=中西賢司】ウガンダの首都カンパラで11日に起きた爆発による死者は74人に増えた。ソマリアを拠点とする武装勢力アル・シャバブが初めて同国外で行ったテロとの見方が強い。
 ウガンダ政府によると、事件は2人の自爆テロ犯の仕業とみられる。犯行声明は出ていないが、レストラン2軒で25分以内に相次いで爆発を起こす手口は、アル・シャバブが連携する国際テロ組織アル・カーイダと酷似している。3か所目の爆発があったとの情報もある。
 アル・シャバブは、内戦が泥沼化するソマリア中南部を実効支配する。今年1月には、昨年末の米航空機爆破テロ未遂事件に関与したイエメンのアル・カーイダ系組織との連携を表明した。米欧からソマリア系住民を呼び寄せて軍事訓練を行っているとされ、今回の犯行に関与した可能性もある。
(2010年7月12日23時55分  読売新聞)
ソース元:http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100712-OYT1T00893.htm
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テロが起きた昨晩は、同県の先輩隊員とコルピンでワールドカップ決勝戦を観戦してました。
一日遊んだ後での観戦だったので、二人で睡魔と戦いながら(先輩は途中完全に寝てた)のボンヤリ観戦だったけど、もしカンパラで観戦してたらと思うと。。。



犯行声明もまだ出されてないし、テロ情勢に明るいわけでもないので、何とも言えません。
身近な場所でテロが起こるって事に対しても、何とも言えません。
だからって「何も思うところがない」なんて平気で言える程、鈍感じゃありません。
新聞の写真は惨憺たるものだったし、ワールドカップ南ア大会@ウガンダの最後はテロで終わってしまったのだ。




テロ行為を弾劾するだけじゃ、もはや当たり前すぎて議論の枕にもならない。
かと言って、さして事情も知らない癖にやたら騒ぐ"パフォーマンスごっこ"も趣味じゃない。
でも、"遠い世界のどこかの出来事"として流すには近すぎる。

他人を幸福にしようとする人は疲れて見えるし、
自分のことしか考えられないのは神経質に見える。

そうなると、こういう場合「何も考えないこと」が最適解になるんだろか?
「とりあえず何とかやっていくこと」が方法論的に合理的な選択肢になるんかい?


昔読んだノベルト・ボルツは言ってます。
「問題は無知ではなくて混乱にあり、混乱を無知と取り違えることが、社会問題解決を紺案にする」

"何か"に対する事の本質は、それが正しいか否かではなく、"自分"が何を意思するかだと思うんです。それに教育の最終的目的は、混乱を統御できるような人間を作ることじゃなく、問題は無知ではなく混乱なのだということに気づくための機会を提供することだとも。

だから僕は、カンパラのテロを憂いつつ、明日のBuoyancyについての授業準備に追われてるのであります。僕は元気にやってます。
(ただ、爆破と同時にネット回線もやられたらしく、回線速度が激低下。。。。)

We can't wait. ~Let's go 2010~ ⑩

パラグアイ戦当日。

この日は、ウガ時間午後5時から試合開始。
翌日の授業準備をさっさと終わらせて、試合開始前にタウン集合。
同じ任地の先輩達と"コルピン"というミティアナタウンの中心地にあるホテルのバーに置いてあるテレビで観戦。

前回のテレビ屋さんでも悪くなかったんだけど、テレビ屋さんでは酒が飲めず、どちらかと言えば、テレビをじっと見て真剣に観戦する玄人好みの場所。

一方、こちらはお酒を交えてワイワイ観戦できるパンピー好みの場所。観戦料金取られる事もないし。
って事で、先輩達とワイワイ with Bearで応援してました。

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試合途中、友達のオケロさんに"ホンダにそっくり"と言われた。
ちなみに、前回の試合で"川島にそっくり"と発言したのがオケロさん。
ガチャピン顔なもので遠藤似だと思ってたんだけど、こっちの人からするとアジア人は区別がつかないらしく、要はみんな僕に似てるらしい。

こないだ道端で友達になったボブには"韓国と北朝鮮と日本人の区別がつかん"って言われる始末だし。まぁ、こちとらタンザニア人とケニア人とウガンダ人の区別がつかない(むしろウガンダ人の中でも種族によって顔立ちが違うらしいけど、もちろん区別がつかない)ので、どこもそんなもんだ。

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始めは日本人+数人だった観戦も、試合がもつれる度に(僕らの観戦が盛り上がる度に)外からドンドン人が集まってきた。延長後半には溢れる程の人だかり(何も注文してないくせに笑)。

結果は、、、、、まー、、、ねー。
なんとも、、、ねー。正直、試合終了直後は沈黙。
もらい泣き体質+泣き上戸なもので、ついついもらってしまった。

という訳で、ワールドカップ南ア大会観戦@ウガンダは日本の予想以上の健闘もあって、ワイワイ楽しくやってました。これからは、たまった日記のアレコレをまた書き綴っていこうかなと。