2011年2月26日

GOOD MORNING '11⑯

午後5時頃。
今日の目的地、SHIRA CAMP(3840m)に到着。

シラ峰(3,962m)には、薄く乳白色の膜のような雲がかかっていた。
Walk in sunset①
陽がその中にまぎれ
周辺がぼんやりとした朱色に染まると
キャンプは夕暮れどきの色彩につつまれる。
Walk in sunset②
なだれるような華麗な夕暮れではなかったが
青から藍に、藍から紫に。
あたりの空気は急速に色づきはじめる。
Walk in sunset③

山の夕陽というのはフジカラーもブレーンバスターも一発KOというぐらい本当に美しいものだった。

GOOD MORNING '11⑮

MACHAME ROUTE⑦
午前は"不毛と分かっていながら、全力で参加してしまう合コンの罠"について議論。

MACHAME ROUTE⑧
高山植物なんかを横目に、登山登山。

MACHAME ROUTE⑨
午後は体調悪い組を気づかって最後尾にまわりつつ、"面白い話して"ボールをまた投げられる。
前日の失敗があったので元気な先輩と下ネタで挑むも、体調悪い組からはノーレスポンスだった。

GOOD MORNING '11⑭

登り始めて、2時間を過ぎた頃@3400m付近。


一行で武闘派に次いで、頼りがいのある元野球部 兼 稲作隊員の先輩が高山病発症。
先輩は、ウガンダの第二峰、Mt.Elgon(標高 4,321m)にも登頂した登山経験者。
(最高峰のMt.Rwenzori(標高 5,109m)は危険過ぎて隊員は登れない)

一眼で写真を撮ろうとしゃがんだ途端、立てなくなってしまった。
高山病は、体力の有無じゃなく、なる時はなるもんらしい。


We need GLUCOSE!ポーター呼んで、一休み。
そこで出たのが、我らがグルコース(ブドウ糖)。
タンザニアはどうか知らんけど、グルコースはウガンダでお馴染み。

直接粉を口にして、口の周りを白くしてる子供をずいぶん目撃する。
日本でもそういう摂取方法があるのかどうか知らんけど。
"随分ワイルド、、ってか雑だなー"って思うウガ風景。

ポーター曰く、
「このコカイン飲めば、元気モリモリ!ブッ飛ぶぜ!ブハハ!!」
ずっとコカインコカイン言ってた。


今まで口にした事が一度もなかったので、ついでにもらってみた。
すると随分こいつがイける。駄菓子屋のラムネ味。
むしろ、美味い。
道中、無駄にムシャムシャ摂取。
高山アタックにはグルコース、オススメです。




先週。
街のインド人スーパーに行ったら、"GLUCOSE ENERGY DRINK "と遭遇。
あのムシャムシャ道中が脳裏をよぎったので、ジャケ買い。
喜々として帰宅後、試飲。

雑巾味だった。

「どうせあたしをだますなら、死ぬまでだましてほしかった」by西田佐知子「東京ブルース」
Sayonara GLUCOSE

GOOD MORNING '11⑬

MACHAME ROUTE⑤









前日の雨が冗談みたいに
晴れた2日目。



3000mから出発。



もうこのへんからして
雲の上なのでした。
MACHAME ROUTE⑥

2011年2月21日

GOOD MORNING '11⑫

夜。

Light Dance③

キリマンジャロの夜空には

そこには本当に

粉砂糖をまぶしたような満天の星があって

Light Dance②

Light Dance④

地面に寝転がって空を見ていると

星空の奥に、自分の身体が落ちていくような身震いを感じた。

Light Dance①

流れ星はまるで、光の舞踏だった。

GOOD MORNING '11⑪

そんなこんなでトロトロ&ペチャクチャを繰り返して登り登る。

そのうち、出発直後からギンギンに晴れていた空があっという間に曇天に。
"神様は、キリマンの空に黒雲を縫い付けてしまったのだろうか"
なんて心配をしていたら(そもそも登山の目的は"初日の出"なので、曇天は最低最悪)
案の定、降り始めた。

とはいえ。
山の天気は変わりやすいって話は前もって知っていたので、しっかりカッパを用意していたのだ。
ウガンダで同任地だった先輩が、帰国する際に譲ってくれたカッパを颯爽と装備。
(>ゆみさん!カッパ有効利用してますよ!)

んが。
雨が本格的な大ぶりになってカッパでの防水に限界がきた時、事件は起きた。
下のズボンがまさかの水を全くハジかない(ウガンダで購入)。
見た感じスキーウェアだと思って買ったのに、完全にタダのウインドブレーカーだった。

前述のように、みんなはレンタル屋で登山用のズボンorポンチョを借りてるので、完全防水。
そんな中ケチって"ズボンはウガンダで買ったし、カッパもあるから"と爽やかに用意周到さをアピールした手前、周りには最後まで言えなかった。「雨降るとパンツまで濡れる」とは。



一行に止まない雨に対して
「誰だよ、日頃の行いが悪いヤツは」なんて悪態をついてみたりもした。
そして、胸に手を当てて考えた。
そして、そっとみんなに謝った。

MACHAME ROUTE④

まぁそんなこんなで雨の中をビショビショになって登り続けて、
17時頃に一日目の宿泊地"MACHAME CAMP(3000m)"に到着したのでした。

GOOD MORNING '11⑩

登山の道のりは、初めこそ自然豊かな景色にワーワーキャーキャー感嘆の声をあげて楽しんでいたけど、
2時間もすればなかなかもって飽きる。


僕らも例外なく、しっかり飽きた。


けど一人じゃない事の利点は、"会話ができる"点。
初日に限らず、登山中はとにかく会話し続けてた記憶がある。


特に初日はよく喋った。まだ元気だったし。
それに「何か面白い話して」と会話のボールを投げられたから。
相手は軽い気持ちで投げたんだろうけど、全力で投げ返した。
こちとら暇なのだ。相手無視の暴投気味な全力投球。


その友達からはエヴァのアニメと映画のデータをもらってたので、随分前に思想界隈で流行った、エヴァを一つの例に『国内社会の推移とそれに伴う想像力(サブカルチャー)の話』をエンエン、クドクド、ダラダラ。。。


下記詳細↓

国内における70年代以降の展開は、概ね消費社会の浸透とそれに伴う社会の流動性上昇の課程として捉えられる。これらが進行すると、何に価値があるのかを規定してくれる「大きな物語」が機能しなくなる(ポストモダン状況の進行)。
「大きな物語」とは、伝統や戦後民主主義といった国民国家的なイデオロギー、あるいはマルクス主義のように歴史的に個人の人生を根拠づける価値体系のことを指す。言うなればこの40年、日本の社会は「モノはあっても物語(生きる意味、信じられる価値)のない世界」が進行する課程であった。
ーーー「不自由だが暖かい(わかりやすい)社会」から「自由だが冷たい(わかりにくい)社会」へーーー
世の中は少しずつ段階を踏んで変化してきた。つまり、消費社会の自由と豊かさと引き換えに、それまで人々に物語を与えていた回路が壊れ、信用できなくなる、といったことが繰り返されていった。


そして、70年代以降の国内においてもっとも大きくこの状況が進行したのが1995年前後であるとされる。

この「1995年前後」の変化は二つ。
・「政治」の問題(平成不況の長期化)
この時期がバブル経済崩壊を発端とするいわゆる「平成不況」の長期化が決定的になり、戦後日本という空間を下支えしてきた経済成長という神話が崩壊したことを意味する。つまり「がんばれば、豊かになれる」世の中から「がんばっても、豊かになれない」世の中への移行。

・「文学」の問題(地下鉄サリン事件に象徴される社会の流動化)
オウム真理教による地下鉄サリン事件に象徴される社会不安を意味する。「自由だが冷たい(わかりにくい)社会」に耐えかねた若者たちが、同教団の神体である発泡スチロールのシヴァ神に象徴されるいかがわしい超越性に回収されテロを引き起こした現実は、当時の国内社会に蔓延していた「意味」と「価値」を社会が与えてくれない生きづらさを象徴する事件だった。ここに見られるのは「がんばれば、意味が見つかる」世の中から、「がんばっても、意味が見つからない」世の中への移行。

結果として、90年代後半は戦後史上もっとも社会的自己実現への信頼が低下した時代として位置づけられる。
社会的自己実現への信頼が低下した結果、「~する」「~した」こと(行為)をアイデンティティに結びつけるのではなく、「~である」「~ではない」こと(状態)を、アイデンティティとする考え方が支配的になる。ここでは自己実現の結果ではなく、自己像=キャラクターへの承認が求められる。問題に対しては「行為によって状況を変える」ことではなく「自分を納得させる理由を考える」ことで解決が図られる。


ここでの「エヴァ」(1995)。
従来のロボットアニメのように、「ロボットに乗って活躍すること」は父親に象徴される社会に認められること、つまり「社会的自己実現による成長」の暗喩に他ならない。エヴァでは物語の後半、主人公碇シンジは「エヴァ」に乗ることを拒否して、その内面に引きこもり、社会的自己実現ではなく、自己像を無条件に承認してくれる存在を求めるようになる。ここには「~する/~した」という社会的自己実現ではなく、「~である/~ではない」という自己像(キャラクター)の承認によるアイデンティティの確立が明確に選択されている。
同時に、この何が正しいことかわからない、誰も教えてくれない不透明な世の中で、他社と関わり、何かを成そうとすれば必然的に誤り、誰かを傷つけて、自分も傷つくという絶望が描かれていることが重要。
同作において碇シンジは司令官である父親(社会)に従ってロボットを操縦した結果、友人を不具にし、心を通わせた敵の少年を殺してしまう。そもそも父親の組織自体が、オウム真理教すら想起させるカルト宗教的な背景が見え隠れし、まったく全貌がつかめない不透明なものとして描かれている。
つまり、ここでは前提として(父親に象徴される)社会とは不透明でカルトな「誤った」存在であり、そこにコミットすればそれは必然的に誰かを傷つけるーーーそう、寄る辺なき若者たちの「間違った父親」として機能したオウム真理教が信者たちをテロに牽引したようにーーーという世界観が導入されている。
そして、そこで叫ばれているのは「何かを選択すれば(社会にコミットすれば)必ず誰かを傷つける」ので、「何も選択しないで(社会にコミットしないで)引きこもる」という「~しない」という一種の否定神学的な倫理に他ならない。

(対称的に「不自由だが暖かい(わかりやすい)社会」の想像力で言えば、「ヤマト」の主人公古代進はなにも悩まず、なんのために宇宙戦艦乗ってんだとか、ヤマトって無意味なんじゃないかとか、地球なんて滅びちゃえばいいとかは絶対思わない。「ガンダム」が現れて以降そういう能天気さは通用しなくなったけど、あれにしたってアムロが不満を抱いて出撃拒否をした場面で、上官ブライトさんに殴られて叱られる。このときブライトさんが体現しているのが「社会」。「社会」を背景に戦うことを要求するブライトさんにアムロは反発するが、最終的には受け入れ、やがてはブライトさん以外の「社会」も認知し、成長していく。かつては社会が「戦う理由」を根拠づけてくれたし、自意識の問題も「社会に自分をどう位置づけるか」という形で展開していた。)

社会的自己実現への信頼低下という主題、心理主義的な人間観、そして「~しない」という倫理。
「引きこもり/心理主義」的傾向とその結果出力された「~しない」という倫理。
この2大特徴が「古い想像力」。

(たとえば90年代後半における野島伸司作品「聖者の行進」(1998)、「リップスティック」(1999)、「美しい人」(1999)などは明確に心理主義化していく。これらの作品はいずれも広義の精神的外傷をもつ登場人物がその傷をアイデンティティとし、「あなたは〜という傷を持っているため、美しい」という承認を得るという構造を持ってる。また東野圭吾などのこの時期に注目を浴びていった有力作家たちの多くが、犯罪者たちの動機を一様に過去の精神的外傷に求めていた(「動機の不在」問題)。この時期の椎名林檎、浜崎あゆみなどの歌詞も精神的外傷をもとに自己像への承認をめぐるもの。)

MACHAME ROUTE②


だが2001年前後、この「引きこもり/心理主義」的モードは徐々に解除されていくことになる。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ、小泉純一郎による一連のネオリベラリズム的な「構造改革」路線、それに伴う「格差社会」意識の浸透などによって、90年代後半のように「引きこもって」いると殺されてしまう(生き残れない)という、ある種の「サヴァイヴ感」とも言うべき感覚が社会に広く共有されはじめた。

・世の中の仕組み⇒「政治」の問題
小泉構造改革以降の国内社会に「世の中が不透明で間違っているから何もしないで引きこもる」という態度で臨んでいたら、生き残ることはできない。自己責任で格差社会の敗北者を選択したと見做されてしまう。

・個人の生き方⇒「文学」の問題
社会的自己実現を拒否し「何も求めない」ように見える碇シンジが、その一方で自分を無条件で承認してくれる存在を求めていたように、「何かを選択すれば必然的に誤るので、何も選択しない」という態度は、実は成立しない。


2001年を前後して、90年代にはかつてのシステムが無効になった衝撃によって覆い隠されていたポストモダン状況の本質とも言うべき構造が露になった。
その本質とは、人々はもはや歴史や国家といった「大きな物語」に根拠づけられない(究極的には無根拠である)「小さな物語」を中心的な価値として自己責任で選択していくしかない、という現実。
それを受け入れなければ「政治」の問題としては生き残れず、「文学」の問題としてはそもそも「何も選択しない」という立場が論理的に成立しない。

そこでの「バトル・ロワイアル」(1999)。
ある高校の一クラスが、政府の指導によってある日突然「殺し合い」をさせられる衝撃的な展開は、まさに時代の「気分」を先取りしたもの。エヴァのように、あるいはそれ以上に同作における社会は不透明で、信用ならない。しかしだからといって、シンジ君のように「そんな世の中が間違っているから、何もしない」「結果を出すことではなく、自己像を理解してもらうことで認められたい」と煩悶していたら、このゲームの中ではたちまち殺されてしまう。

この時期から社会が「何もしてくれない」ことは徐々に当たり前のこと、前提として受け入れられるようになり、その前提でどう生きていくのかという問題に物語の想像力は傾き始めた。
「引きこもっていたら殺されてしまうので、自分の力で生き残る」という、ある種の「決断主義」的な傾向を持つ「サヴァイヴ感」を前面に打ち出した作品は、ゼロ年代前半から中盤の大きな流れになっていく。
たとえば、「バトル・ロワイアル」のフォロワーとして、やはり生き残りをかけた理不尽なゲームに主人公が巻き込まれる「リアル鬼ごっこ」(2001)、13人の仮面ライダーがバトル・ロワイアルを行う「仮面ライダー龍騎」(2002)、三流高校の生徒たちが特殊な勉強法とドライな人間観を叩き込まれ「生き残るために」東大入学を目指す「ドラゴン桜」(2003)、教室というシビアな自意識バトルが繰り広げられる空間でいかに「生き残るか」というシビアな「サヴァイヴ感」を提示した「野ブタ。をプロデュース」(2004)、ドラゴン桜的なドライな人間観をアイロニカルに視聴者に突きつけることで高視聴率を得たドラマ「女王の教室」(2005)。


こうしたゼロ年代前半のサブカルチャーを特徴づけた想像力は、90年代的な「引きこもり」思想が怯えていた「社会の不透明さ」を、ある種の前提として受け入れている。そして、その上で9・11後の世界が突入したシビアな格差社会、バトル・ロワイアル状況を自分の力で生き延びていこうとする積極的な意思に溢れている。そこでは90年代的な幼児的自己愛の承認を求め続ける「引きこもり」的態度が、諦念を織り込み済みで他者に手を伸ばす態度によって克服されている。


ゼロ年代のエヴァ的(時代を反映した)作品の代表が、「DEATH NOTE」(2003)。
夜神月は碇シンジ以上に、「社会」を信用していない。シンジが、戦いの中で徐々に社会(父親)への不信感を募らせ、引きこもっていったのに対して、夜神月は普通の高校生活を送る物語の序章の時点で既に、既存の社会をまったく信用しておらず、警察官僚の父親ですら歯牙にもかけていない。そして十代にして既に官僚になり権力を握ることで具体的に社会を変革しようと考えていた月は、デスノートを入手したことでその計画を「前倒し、拡大」することになる。つまり、それまでの社会(のルール)が壊れたことに衝撃を受けて引きこもるのが碇シンジなら、社会の既存のルールが壊れていることは「当たり前のこと」として受け入れ、それを自分の力で再構築していこうとするのが夜神月なのだ。まさにゼロ年代の「サヴァイヴ感」とその対処法としての「決断主義」的な傾向を体現する表現であり、優れた現実認知の物語。
ただ、本作は決して夜神月の自覚的な決断主義というコミットメントを手放しで肯定してない。時に英雄的に、時に劇画的に描かれる。それぞれの登場人物がそれぞれの倫理を主張するが、それらは全て劇中で特権的な位置を占めることはなく、政治的な勝利によってしかその真正さを、それも暫定的にしか保証できない「小さな物語」にすぎないのだという諦念が徹底して打ち出されている。
決断主義という誰もが逃れられない課題(例えば夜神月的暴力や、彼に一定の真正さが認められ、支持してしまう人々がいるという現実)に対して、どう考え、向きあっていくのかーーそれが同作の主題に他ならない。
そして恐るべきことに「DEATH NOTE」は、そんな現実に「より強い夜神月」を目指して立ち向かう=「L」となることも決して解決にはならないことを示している。事実、夜神月はLの後継者であるニアとメロに破れて、死んだ。だが、月が死んだ後に残されるのは、相変わらず、万人がそれぞれ自分の信じたいものを信じて争うバトルロワイヤルの世界でしかなかったことが示される。

(たとえば、僕らはソーシャル・ネットワークや動画共有サイトですぐに同好の士を見つけ、見たいものだけを見て、信じたいイデオロギーだけを信じて、愛したいキャラクターだけを愛して、それを共有できるものたちだけでつながり、島宇宙を形成して棲み分けることができる。そしてその「閉塞した快適さ」をまもるために、他の島宇宙と時にウェブ上で、時に街頭で衝突する、、、僕らが生きているのはそんな世界だ。)


想像力(サブカルチャー)は、ここを問題にした。
政治の問題はさておき、文学の問題(個人の生き方)として"生きることはすなわち戦うこと(他者を排除して自分の信じたいものだけを信じる)という想像力"でいいのか、という問題。だがこれまでの想像力、碇シンジでは夜神月を止められないし、かといって自分たちも夜神月になって戦うのでは、バトルロワイヤルを止められず、むしろ激化させる。碇シンジに戻る=90年代に退行する(引きこもる)ことでもなく、ゼロ年代の決断主義(バトルロワイヤル)を克服する=夜神月にもならずにこのゲーム(社会)を生き抜くにはどうしたらいいのか。

そのための大きなヒントになる想像力が、ゼロ年代前半から現在にかけて既に多数出現している。
例えば、、、





と、話している間に"そして、誰もいなくなった"状態に。





いつのまにか話題は、"他人をイラつかせる自分の行動"というものに変わってた。
僕の場合は"話が長い"で満場一致。

GOOD MORNING '11⑨

MACHAME ROUTE①
キリマンジャロの入り口は、どこもかしくも熱帯雨林だった。
MACHAME ROUTE③

2011年2月20日

GOOD MORNING '11⑧

MACHAME GATE(霧でモヤモヤ)に到着。
MACHAME GATE①
キリマン登山にはいくつも登山ルートがあるらしいけど、代表的なルートが2つ。
Mrang routeとMachame route。

前者のマラングルートは素人向け。
比較的楽勝らしい。宿泊施設がキャンプではなくハットで泊まれるし、余計なアップダウンもない。
(反町やあいのりメンバーはこっち)

後者のマチャメルートが玄人向け。上記の全部反対。
比較的困難らしい。宿泊施設がキャンプなので狭くて寒くて疲れがとれない。後半アップダウンが激しい。

ウガンダで生活してる程のMっ気ある一行なので。
もちろんです。マチャメです。



記念撮影。
しかもウガンダ代表(自己申告)として、しっかりアピールするために代表ユニフォームを着込んで撮影。
(真ん中はケチって安物に手を出して騙されたため、偽物ユニフォーム)
MACHAME GATE③


ゲートは他の登山客&ポーターでごった返し。初日の出を山頂で拝もうって魂胆は世界共通だった。
Registration(入山に必要な手続き)やら、ポーターの荷物の計量待ち(一人の積載MAXは20㌔)やらで、入り口で1時間くらい足止め。
そしてポーター+自分達の合計53人という大所帯で、午前10時(くらい)に登山開始。
MACHAME GATE②

2011年2月17日

GOOD MORNING '11⑦

Moshi Townでは、早速翌日の登山に向けて準備。

まず、今回の登山で世話になるレンタル屋 兼 ツアー会社「Gladys adbenture」(HPはここ)に行って、
顔合わせ+装備品のレンタル。

ここは、寝袋から防寒具までしっかりした物が完備された、信頼と実績のある会社。
お金の余裕があれば手ぶらで来ても(誇張抜きで)登山できると思います。



ただ、オーナー女性の
"山頂はー25℃になるから、めっちゃ準備してき!フルフェイスのマスクも借りてき!"
の発言には、ノれなかった。

いくらウガンダからの体感温度差があるって言っても、この気温。
大げさに見積もっても、約30℃。
"標高が100m高くなるたびに0.6℃気温が下がる"って理科の常識(先日、生徒に教えたばかり)と、
キリマンを6000mと換算しても、山頂は、、、

30℃ー0.6℃×60=ー6℃

そんなもん日本の真冬&雪山からしたら、やわらかく肌をなでつける春の息吹みたいなもんだ。



それに、僕には上記の計算以上の裏打ちに証明された、キリマン寒への勝算があった。

それこそ、"腹巻き"(made in ジャパン)。
あれはだってあなた、かたちを変えた母性そのものです。
そっと包みこんでくれる、あのユルさと温もりこそ慈愛そのものであって、故郷から遠く離れた土地で生きる
昭和の男性がステテコとセットで身につけているのも、それなりの理由があってのことなのです。
涙ナシには考えられない。

そんな"腹巻き"a.k.a"母性"に身を包まれた身体には、厳寒すら春一番。

もし、山頂の寒さが想定以上の酷寒だったとしても、そんなものはお花つみに言って地雷踏んだような不幸な
事故にあったと思うことにして、レンタル品もそこそこでのぞむ事にしたのでした。

(そんな勇猛果敢さも、仲間内では"ケチ"の一言で済まされた。)


その後は、帽子もしっかり買ったりして(もちろん、僕は買っていない)。
KIliman hat!






あーだこーだ準備して、食べて、寝て。
We're preparing










翌朝。
登山の入り口 Machame gate(1800m)まで、宿から車で出発。
こうして5泊6日の長い長い登山は始まったのでした。
On the way to Kilimanjaro①

GOOD MORNING '11⑥

On the way to Kilimanjaro②
Kilimanjaro空港から、麓のMoshi Townまでの道のり。

そこいくと、やっぱりアフリカ大陸。
果てしなくドバーーーっと続く一本道をドバーーーっと。
改めて、日本の国土の2.5倍、東アフリカ最大国土のタンザニアの広大さをシミジミ。

そして、この国道。
ウガンダ人も"Bannange!"(驚嘆する時のルガンダ語)な舗装具合。
穴が全くない。いつものヘビメタのギグよろしくなヘッドバンギングも不要。
何でも、日本のODAで建設されたそうな。建物行政の偉大さをシミジミ。


また道すがら、たくさんのマサイ族の方々と対面。
マサイ族はケニアにいらっしゃるものとばかり思っていたので、意外だった。
携帯持ってたり、自転車で二人乗りしてる姿なんてのも、なんだか意外だった。
ただ、みなさん赤い伝統衣装を必ず身にまとっていたので、そこはシミジミ。
マサイ族の方

GOOD MORNING '11⑤

タンザニアに降り立って思った。
@Kilimanjaro Airport②













@Kilimanjaro Airport①



























あつすぎ。


普段ウガンダに対して"あつい、あつい"文句を言ってるけど、それは日光が多いって事に対して言ってるのであって、気温に対してじゃあない。


"年中、夏の北海道並の気温"の異名は伊達じゃなく、木影 or 室内にいればウガンダは随分涼しい。
(西部地方は寒いし、東部地方は暑いって諸事情はさておき。)
事実、Peace Corpsの友達にもらった我が家の扇風機は、一度として日の目を浴びた事がない。

それに比べてタンザニアってぇ奴は、高度は下がるし、海には面しているわってわけで。
歩いてるだけで汗かく。

さながら、極東最前線。
@Tanzania

2011年2月16日

GOOD MORNING '11④

ひとつの空。空はいつも空。それはとても平和な世界のイメージ。

Air Air Air

GOOD MORNING '11③

3人のメンバーを失った一行。
キリマンジャロ山頂まで何人が残るのか?そもそも、山頂まで誰か着けるのか?
出発早々サバイバー感モリモリで、改めてキリマンジャロの恐怖を思い知る、、、


と、思ったけど。
行きのTAXI内で撮った映像を見る限り、しっかりハシャイでいた。

"やぁまた話の種がひとつ降ってきた"という感じで、笑い飛ばしてあげたのでした。
それが愉快な仲間への最大の思いやりであり、「ま、なんとかなるさ」は、こっちでの毎日の風景。



そして、フライト。
去年の3月以来のウガンダ脱出。
そりゃあもう嬉しい。こちとら私的な"海外旅行"だって初めての経験なのだ。
そんでもって、また体のどこかがウズくのでした。
Air Plain To Kilimanjaro①
Air Plain To Kilimanjaro②
PS:JICA officeで渡航許可が下りなかった同期は、鬼のような速さで報告書を仕上げて、鬼のような早さで空港に着いて、なんとか合流を果たしたのでした。

GOOD MORNING '11②

結局、キリマン登山メンバーは隊員11人+旅人1人の素人集団12人の大所帯に。

クリスマス帰省でガラガラになった首都に12月26日の晩に全国から集まって、
付け焼刃として甘い物を大量購入したり、ソワソワしたり、キャッキャッしたり。
(個人的には、旅行の不在中に催される帰国隊員の送別会で流すスライドショーの編集で2時までカタカタしてた。我ながら親睦会メンバーの鏡です、ハイ。)

何にせよ、みんなで出発に備えたのでした。




だが、事件は出発当日(27日)に起きる。

前述のリーダー的存在の先輩(武闘派)が、朝(4時)にマラリア発症。

まさかまさかの脱落一号に。





一番タフだと思われた精神的支柱の喪失。

先行きの不安が、一行を襲う。





それでも気をとり直して、パスポートを受け取りにJICA officeへ。
(隊員は公人として入国するので、緑の公益パスポートを使用する。
ただ、毎年多くのパスポート紛失者が隊員から出るため、パスポートはJICAオフィスに預けてある。)



だが、事件はJICA officeで起きる。

メンバー内の同期2人が、報告書を提出していない事が発覚。
(隊員は、定期的にJICAに活動報告書の提出が義務づけられている)

"未提出では任国外は許可できない"とのofficeの意向。

まさかまさかの脱落二号、三号に。




空港行きのTAXIの時点(出発して1時間)で、4分の1のメンバーを失ったのでした。
TAXI

2011年2月14日

GOOD MORNING '11①

今回のキリマン登頂話は、昨年9月にまでさかのぼる。

先輩の理数科教師に
「初日の出をアフリカ大陸最高峰で拝もう」と誘われたのだった。
この先輩、大阪で消防士をしながらの現職参加。
そのため、理数科教師のくせに超武闘派。体育会系。ドS。
学校赴任後すぐに生徒の前でバク宙を披露して人気を博したという飛び道具まで持ち合わせている(嫉妬)。
もちろん僕の大好きな部類の先輩なので、即決で了承。


にしても登山童貞がいきなりのキリマンジャロ。取的と関取の大一番だ。
実力差はさる事ながら、何を準備したらいいか全く分からん。

知っている事と言えば、、

"バックパッキングとは何を持っていかないかという策略のことである"
Byメイベル男爵ⓒ『バックパッキング教書』(名著)

"人生はいつも準備不足の連続だ。
 常に手持ちの材料で前へ進む癖をつけておくがいい"
Byエヴァンジェリンⓒ『魔法先生ネギま!』(漫画)

つまりは用意しすぎてもしょうがないという事くらい。

"そもそもウガンダで登山道具なんて揃うわけないじゃん、正味のところ"
なんてアナルの小さい泣き言を抱えつつ、
反比例して威勢だけはよく"安全第一、面白第二!"と放言しながら、出発当日を迎えたのでした。
To KILIMANJARO

2011年2月10日

最近の話。

"ムビルくん最近なにしてるの?"
と聞かれて顔を紅潮させながら「何もしてないよ!バカ!」と激昂する2月です。

それは僕だってワイングラスを片手に「そうだね…最近は事業の立ち上げに追われててんてこまいさ」とか、「そろそろ新しいボムをドロップするつもりだ…ヤバいのができたと確信している。期待してくれ!」とか、
それっぽいことを言えたらおもしろいと思うのだけど、残念ながら僕の人生は大多数の人がそうであるように、とくべつ劇的なわけではない。
(注釈:いきなり前回の自分を裏切る程、何もしてない訳ではないけど)

その代わりというかなんというか、周りにいるウガ人は僕の100倍劇的な生き方をしていて、そういう意味ではあんまり飽きることがありません。


先日も僕より一回り年上の男性(妻子持ち)が抱えるじつにハードな悩みを思いがけず聞かされる羽目になって、答えの出ない問題を一緒になってあーでもないこーでもないとひねくり回していたくらいです。

そんなの僕に話したってどうにもならないとおもうんだけど、どういうわけか昔から一夫多妻的感覚とか性的つまみ食いの極端な事例を直接耳にする機会が多くて、そのたびに「ふーむ」と腕を組みながら絶句しています。


マサイの女性大人になればなるほど愛情とは理性から切り離された独立機関だということが実感としてよく分かってくるので、どのみち打てる手なんてそんなに多くないのです。大抵の場合は当の本人がそのことを一番よく分かっているし、話すだけ話して、聞くだけ聞いたらあとはお互いチャーリーブラウンみたいに「sigh!」と弱々しくつぶやくほかない。

ちなみにそういう話の着地点として「ムビル君を好きになればよかった…」的なことを昔はよく女性から言われたりしたんだけど、実際好きになられたことはかつて一度もありません。けしからん上にまったく人をバカにしている。ちょっとくらい好きになったってバチは当たらないってのに!




しかしなんだって僕はこんな話をしているのだ?



乾季の暑さと、停電のウンザリと、恒常的頭痛から、
どーでもいー事を書きたくなったのでした。

それとは別に。
"真の旅人の荷物は少なく、旅とは所在のなさであり、寅さんは出会った町を自分の家とする"
みたいな旅の話を書こうと思ったのだけど、、、それはまた今度。頭痛なう。