2011年2月21日

GOOD MORNING '11⑩

登山の道のりは、初めこそ自然豊かな景色にワーワーキャーキャー感嘆の声をあげて楽しんでいたけど、
2時間もすればなかなかもって飽きる。


僕らも例外なく、しっかり飽きた。


けど一人じゃない事の利点は、"会話ができる"点。
初日に限らず、登山中はとにかく会話し続けてた記憶がある。


特に初日はよく喋った。まだ元気だったし。
それに「何か面白い話して」と会話のボールを投げられたから。
相手は軽い気持ちで投げたんだろうけど、全力で投げ返した。
こちとら暇なのだ。相手無視の暴投気味な全力投球。


その友達からはエヴァのアニメと映画のデータをもらってたので、随分前に思想界隈で流行った、エヴァを一つの例に『国内社会の推移とそれに伴う想像力(サブカルチャー)の話』をエンエン、クドクド、ダラダラ。。。


下記詳細↓

国内における70年代以降の展開は、概ね消費社会の浸透とそれに伴う社会の流動性上昇の課程として捉えられる。これらが進行すると、何に価値があるのかを規定してくれる「大きな物語」が機能しなくなる(ポストモダン状況の進行)。
「大きな物語」とは、伝統や戦後民主主義といった国民国家的なイデオロギー、あるいはマルクス主義のように歴史的に個人の人生を根拠づける価値体系のことを指す。言うなればこの40年、日本の社会は「モノはあっても物語(生きる意味、信じられる価値)のない世界」が進行する課程であった。
ーーー「不自由だが暖かい(わかりやすい)社会」から「自由だが冷たい(わかりにくい)社会」へーーー
世の中は少しずつ段階を踏んで変化してきた。つまり、消費社会の自由と豊かさと引き換えに、それまで人々に物語を与えていた回路が壊れ、信用できなくなる、といったことが繰り返されていった。


そして、70年代以降の国内においてもっとも大きくこの状況が進行したのが1995年前後であるとされる。

この「1995年前後」の変化は二つ。
・「政治」の問題(平成不況の長期化)
この時期がバブル経済崩壊を発端とするいわゆる「平成不況」の長期化が決定的になり、戦後日本という空間を下支えしてきた経済成長という神話が崩壊したことを意味する。つまり「がんばれば、豊かになれる」世の中から「がんばっても、豊かになれない」世の中への移行。

・「文学」の問題(地下鉄サリン事件に象徴される社会の流動化)
オウム真理教による地下鉄サリン事件に象徴される社会不安を意味する。「自由だが冷たい(わかりにくい)社会」に耐えかねた若者たちが、同教団の神体である発泡スチロールのシヴァ神に象徴されるいかがわしい超越性に回収されテロを引き起こした現実は、当時の国内社会に蔓延していた「意味」と「価値」を社会が与えてくれない生きづらさを象徴する事件だった。ここに見られるのは「がんばれば、意味が見つかる」世の中から、「がんばっても、意味が見つからない」世の中への移行。

結果として、90年代後半は戦後史上もっとも社会的自己実現への信頼が低下した時代として位置づけられる。
社会的自己実現への信頼が低下した結果、「~する」「~した」こと(行為)をアイデンティティに結びつけるのではなく、「~である」「~ではない」こと(状態)を、アイデンティティとする考え方が支配的になる。ここでは自己実現の結果ではなく、自己像=キャラクターへの承認が求められる。問題に対しては「行為によって状況を変える」ことではなく「自分を納得させる理由を考える」ことで解決が図られる。


ここでの「エヴァ」(1995)。
従来のロボットアニメのように、「ロボットに乗って活躍すること」は父親に象徴される社会に認められること、つまり「社会的自己実現による成長」の暗喩に他ならない。エヴァでは物語の後半、主人公碇シンジは「エヴァ」に乗ることを拒否して、その内面に引きこもり、社会的自己実現ではなく、自己像を無条件に承認してくれる存在を求めるようになる。ここには「~する/~した」という社会的自己実現ではなく、「~である/~ではない」という自己像(キャラクター)の承認によるアイデンティティの確立が明確に選択されている。
同時に、この何が正しいことかわからない、誰も教えてくれない不透明な世の中で、他社と関わり、何かを成そうとすれば必然的に誤り、誰かを傷つけて、自分も傷つくという絶望が描かれていることが重要。
同作において碇シンジは司令官である父親(社会)に従ってロボットを操縦した結果、友人を不具にし、心を通わせた敵の少年を殺してしまう。そもそも父親の組織自体が、オウム真理教すら想起させるカルト宗教的な背景が見え隠れし、まったく全貌がつかめない不透明なものとして描かれている。
つまり、ここでは前提として(父親に象徴される)社会とは不透明でカルトな「誤った」存在であり、そこにコミットすればそれは必然的に誰かを傷つけるーーーそう、寄る辺なき若者たちの「間違った父親」として機能したオウム真理教が信者たちをテロに牽引したようにーーーという世界観が導入されている。
そして、そこで叫ばれているのは「何かを選択すれば(社会にコミットすれば)必ず誰かを傷つける」ので、「何も選択しないで(社会にコミットしないで)引きこもる」という「~しない」という一種の否定神学的な倫理に他ならない。

(対称的に「不自由だが暖かい(わかりやすい)社会」の想像力で言えば、「ヤマト」の主人公古代進はなにも悩まず、なんのために宇宙戦艦乗ってんだとか、ヤマトって無意味なんじゃないかとか、地球なんて滅びちゃえばいいとかは絶対思わない。「ガンダム」が現れて以降そういう能天気さは通用しなくなったけど、あれにしたってアムロが不満を抱いて出撃拒否をした場面で、上官ブライトさんに殴られて叱られる。このときブライトさんが体現しているのが「社会」。「社会」を背景に戦うことを要求するブライトさんにアムロは反発するが、最終的には受け入れ、やがてはブライトさん以外の「社会」も認知し、成長していく。かつては社会が「戦う理由」を根拠づけてくれたし、自意識の問題も「社会に自分をどう位置づけるか」という形で展開していた。)

社会的自己実現への信頼低下という主題、心理主義的な人間観、そして「~しない」という倫理。
「引きこもり/心理主義」的傾向とその結果出力された「~しない」という倫理。
この2大特徴が「古い想像力」。

(たとえば90年代後半における野島伸司作品「聖者の行進」(1998)、「リップスティック」(1999)、「美しい人」(1999)などは明確に心理主義化していく。これらの作品はいずれも広義の精神的外傷をもつ登場人物がその傷をアイデンティティとし、「あなたは〜という傷を持っているため、美しい」という承認を得るという構造を持ってる。また東野圭吾などのこの時期に注目を浴びていった有力作家たちの多くが、犯罪者たちの動機を一様に過去の精神的外傷に求めていた(「動機の不在」問題)。この時期の椎名林檎、浜崎あゆみなどの歌詞も精神的外傷をもとに自己像への承認をめぐるもの。)

MACHAME ROUTE②


だが2001年前後、この「引きこもり/心理主義」的モードは徐々に解除されていくことになる。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ、小泉純一郎による一連のネオリベラリズム的な「構造改革」路線、それに伴う「格差社会」意識の浸透などによって、90年代後半のように「引きこもって」いると殺されてしまう(生き残れない)という、ある種の「サヴァイヴ感」とも言うべき感覚が社会に広く共有されはじめた。

・世の中の仕組み⇒「政治」の問題
小泉構造改革以降の国内社会に「世の中が不透明で間違っているから何もしないで引きこもる」という態度で臨んでいたら、生き残ることはできない。自己責任で格差社会の敗北者を選択したと見做されてしまう。

・個人の生き方⇒「文学」の問題
社会的自己実現を拒否し「何も求めない」ように見える碇シンジが、その一方で自分を無条件で承認してくれる存在を求めていたように、「何かを選択すれば必然的に誤るので、何も選択しない」という態度は、実は成立しない。


2001年を前後して、90年代にはかつてのシステムが無効になった衝撃によって覆い隠されていたポストモダン状況の本質とも言うべき構造が露になった。
その本質とは、人々はもはや歴史や国家といった「大きな物語」に根拠づけられない(究極的には無根拠である)「小さな物語」を中心的な価値として自己責任で選択していくしかない、という現実。
それを受け入れなければ「政治」の問題としては生き残れず、「文学」の問題としてはそもそも「何も選択しない」という立場が論理的に成立しない。

そこでの「バトル・ロワイアル」(1999)。
ある高校の一クラスが、政府の指導によってある日突然「殺し合い」をさせられる衝撃的な展開は、まさに時代の「気分」を先取りしたもの。エヴァのように、あるいはそれ以上に同作における社会は不透明で、信用ならない。しかしだからといって、シンジ君のように「そんな世の中が間違っているから、何もしない」「結果を出すことではなく、自己像を理解してもらうことで認められたい」と煩悶していたら、このゲームの中ではたちまち殺されてしまう。

この時期から社会が「何もしてくれない」ことは徐々に当たり前のこと、前提として受け入れられるようになり、その前提でどう生きていくのかという問題に物語の想像力は傾き始めた。
「引きこもっていたら殺されてしまうので、自分の力で生き残る」という、ある種の「決断主義」的な傾向を持つ「サヴァイヴ感」を前面に打ち出した作品は、ゼロ年代前半から中盤の大きな流れになっていく。
たとえば、「バトル・ロワイアル」のフォロワーとして、やはり生き残りをかけた理不尽なゲームに主人公が巻き込まれる「リアル鬼ごっこ」(2001)、13人の仮面ライダーがバトル・ロワイアルを行う「仮面ライダー龍騎」(2002)、三流高校の生徒たちが特殊な勉強法とドライな人間観を叩き込まれ「生き残るために」東大入学を目指す「ドラゴン桜」(2003)、教室というシビアな自意識バトルが繰り広げられる空間でいかに「生き残るか」というシビアな「サヴァイヴ感」を提示した「野ブタ。をプロデュース」(2004)、ドラゴン桜的なドライな人間観をアイロニカルに視聴者に突きつけることで高視聴率を得たドラマ「女王の教室」(2005)。


こうしたゼロ年代前半のサブカルチャーを特徴づけた想像力は、90年代的な「引きこもり」思想が怯えていた「社会の不透明さ」を、ある種の前提として受け入れている。そして、その上で9・11後の世界が突入したシビアな格差社会、バトル・ロワイアル状況を自分の力で生き延びていこうとする積極的な意思に溢れている。そこでは90年代的な幼児的自己愛の承認を求め続ける「引きこもり」的態度が、諦念を織り込み済みで他者に手を伸ばす態度によって克服されている。


ゼロ年代のエヴァ的(時代を反映した)作品の代表が、「DEATH NOTE」(2003)。
夜神月は碇シンジ以上に、「社会」を信用していない。シンジが、戦いの中で徐々に社会(父親)への不信感を募らせ、引きこもっていったのに対して、夜神月は普通の高校生活を送る物語の序章の時点で既に、既存の社会をまったく信用しておらず、警察官僚の父親ですら歯牙にもかけていない。そして十代にして既に官僚になり権力を握ることで具体的に社会を変革しようと考えていた月は、デスノートを入手したことでその計画を「前倒し、拡大」することになる。つまり、それまでの社会(のルール)が壊れたことに衝撃を受けて引きこもるのが碇シンジなら、社会の既存のルールが壊れていることは「当たり前のこと」として受け入れ、それを自分の力で再構築していこうとするのが夜神月なのだ。まさにゼロ年代の「サヴァイヴ感」とその対処法としての「決断主義」的な傾向を体現する表現であり、優れた現実認知の物語。
ただ、本作は決して夜神月の自覚的な決断主義というコミットメントを手放しで肯定してない。時に英雄的に、時に劇画的に描かれる。それぞれの登場人物がそれぞれの倫理を主張するが、それらは全て劇中で特権的な位置を占めることはなく、政治的な勝利によってしかその真正さを、それも暫定的にしか保証できない「小さな物語」にすぎないのだという諦念が徹底して打ち出されている。
決断主義という誰もが逃れられない課題(例えば夜神月的暴力や、彼に一定の真正さが認められ、支持してしまう人々がいるという現実)に対して、どう考え、向きあっていくのかーーそれが同作の主題に他ならない。
そして恐るべきことに「DEATH NOTE」は、そんな現実に「より強い夜神月」を目指して立ち向かう=「L」となることも決して解決にはならないことを示している。事実、夜神月はLの後継者であるニアとメロに破れて、死んだ。だが、月が死んだ後に残されるのは、相変わらず、万人がそれぞれ自分の信じたいものを信じて争うバトルロワイヤルの世界でしかなかったことが示される。

(たとえば、僕らはソーシャル・ネットワークや動画共有サイトですぐに同好の士を見つけ、見たいものだけを見て、信じたいイデオロギーだけを信じて、愛したいキャラクターだけを愛して、それを共有できるものたちだけでつながり、島宇宙を形成して棲み分けることができる。そしてその「閉塞した快適さ」をまもるために、他の島宇宙と時にウェブ上で、時に街頭で衝突する、、、僕らが生きているのはそんな世界だ。)


想像力(サブカルチャー)は、ここを問題にした。
政治の問題はさておき、文学の問題(個人の生き方)として"生きることはすなわち戦うこと(他者を排除して自分の信じたいものだけを信じる)という想像力"でいいのか、という問題。だがこれまでの想像力、碇シンジでは夜神月を止められないし、かといって自分たちも夜神月になって戦うのでは、バトルロワイヤルを止められず、むしろ激化させる。碇シンジに戻る=90年代に退行する(引きこもる)ことでもなく、ゼロ年代の決断主義(バトルロワイヤル)を克服する=夜神月にもならずにこのゲーム(社会)を生き抜くにはどうしたらいいのか。

そのための大きなヒントになる想像力が、ゼロ年代前半から現在にかけて既に多数出現している。
例えば、、、





と、話している間に"そして、誰もいなくなった"状態に。





いつのまにか話題は、"他人をイラつかせる自分の行動"というものに変わってた。
僕の場合は"話が長い"で満場一致。

3 件のコメント:

  1. 全部読みましたw

    うっぷ。お腹いっぱいw

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  2. >Piccolaさん
    読み直しました。

    うっぷ。

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  3. おすすめの本読んだよ!
    すごい面白かった。
    けど…山で本読むのはオシャレ過ぎですよ(笑
    あれ?会話だっけ?
    私も永くなりそうだから、やめよーっと。

    とにかく、写真すごい!ずるい!いいな!星のとかヤバイ!
    待ち受けに頂戴ね。
    いつも、素敵なブログありがとう。

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